SNSフォローボタン

フォローする

【資料】少林窟道場 坐禅体験記(3/3)【津留晃一】

It's only fair to share...Tweet about this on Twitter
Twitter
Email this to someone
email
Share on Facebook
Facebook

少林窟道場 坐禅体験記(3/3)

(集合人第4〜6号より)

少林窟道場坐禅体験記(2/3) からのつづき

【少林窟最終日】

————————————————————-

最終日の朝を迎えました。
気の緩みでしょうか、目が覚めたのが5時5分前、
5時からの坐禅に5分も遅刻してしまいました。
凍てつくような寒さでした。
朝課も終わり、朝の老師の法話の時間です。

「ふむふむ、只聞けているぞ」
そして
只立っている自分がいました。

初めて朝の法話を聞いたときには
抵抗している自分が居ました。
老師の話の中に徹底的な道徳論が出てくるからです。
「こうしてはいけない」、
「こうあらねばならない」

こんな話ばかりだからです。
これはここに来る前、
井上老師の書かれた本を読んだときにも感じた抵抗感でした。

「最近の出来そこないの母親」
とか
「文部省の馬鹿役人」
といった発言にも抵抗感がありました。

禅の話の中では
「良いも悪いもない。何を成すこともない。」
といった話をするのに
これはどうしたことなんだろうか
と不思議でした。

坐禅をしている間に
この問題は自然に解決していたわけです。

究極の点にいると
本当に
全てがどうでも良いことが解ります。
どんなことも重要ではなくなるわけです。
即ち
老師にとって
全てがどちらでも良いことなのです。

そこから初めて純粋な選択が可能になります。

どちらにも片寄っていない状態
二者の内どちらも完全に価値が等しい場合

この時だけが純粋な選択になります。

老師にとってどちらでも良いことだから、
自分の今ありたい状態を只純粋に選択しておられます。

「こうであらねば」と力説した後、
そうでない者にも、
そうである者にも

同じように接することが出来る

と言うことです。

これも全く私の独りがてんな解釈なのですが、
そう解ってからは
老師の言葉に全く引っかからなくなりました。

老師の言っていることも戯言だからです。

初回の朝の法話の時、そんな状態で
心の中にもやもやがありました。

まるでそれを見透かしたかのように
「かーつ」
と突然老師は大声を上げました。

それで「はっ」とします。

すかさず
「心のモノがばさっと落ちる。そのように只立っていなさい」
と言うのです。

ふと、自分の心に意識を向けてみると、
なるほど心は空っぽでした。

「そーか、この心の状態を創るのだ」
と解りました。
そして最終日の今、
確かにその状態で只立っていました。

私たちはこのように偶然、心を無にしている
ということはよくあります。

お風呂に入っている時なんかがそうです。

これを偶然の所産ではなく、
自分の意志で創り上げていくところが禅
であるわけです。


朝食後最後の坐禅を行いました。

一点を見つめてみる
自分の境涯がよく解りました。

まだ完全には一点に定着しておらず、
一点の周りを波のように揺らいでいます。

即ち
「今、ここ」に居たり離れたり居たり離れたり
しているわけです。

不思議なことに老師にはそれが解るようです。
最後のお礼のご挨拶に言ったとき

「まだ一点に収まっておらんが、
ハッキリと目標は見えているから
 心配はいらんじゃろう。
そのまままっすぐ進んでいきなさい」

と、こう言うのです。
私は何も話してはいないというのに。
おみそれしました。


12月29日いよいよ少林窟最後の食事(昼食)です。
食後みなさんへの挨拶に時間を戴きました。
3人の同期の法友へ、おいしいおいしい食事を作っていただいた、
観石さんへ、毎日薪のお風呂をたててくれた泉さんへ、
そして老師へのお礼は涙であまり言葉になりませんでした。

13時15分観石さんが駅まで
車で送ってくれることになりました。
なんと全員が車に乗るところまで
お見送りに来てくれました。
しかも完全に見えなくなるまで
ずっと手を振って見送ってくれました。
いつも全員にこういう丁寧な
お見送りをするのだそうです。

忠海駅では一人観石さんが、
やはり列車が発車して見えなくなるまで
手を合わせて見送って下さいました。
真冬だというのに、
のどかな呉線はぽかぽか日和の中、
瀬戸内の海岸沿いを満杯に膨らんだ私の心を
三原駅まで運んでくれました。

【エピローグ】

宇宙は完全で
完璧のペースで
進んでいます。

全ての人に於いて。
貴方も隣の人も
その例外ではありません。

「今、ここ」は完成された瞬間です。

「ここ」へ帰ること、それがゴ−ルです。

それは

今あるがままのここが
そのままで完全だ

と知ることです。

只それだけです。

「どういうことだろう」
と頭を巡らせないで、
「今、ここ」
に心を置いて下さい。

至福への道という観点から見れば、
貴方のすべきことはそれだけです。

そう思えない部分が貴方の中に残っているから
プロセスが進行しています。

それが「在る」ということです。

私の坐禅体験は、
こんな上記のような文章が
取るに足らない戯言として
捉えられるようになった事

です。

そんなことは重要なことではありません。

文中に書きましたが、
一人の女性参禅者が
「私はハイハイと言って引き下がれるような女じゃない」
と老師にくってかかりました。

そんな彼女の私見と、私の上記の私見
どちら単に
自分の在りよう選択にすぎない

ということを理解しました。

私にとって坐禅が素晴らしかったことは、この点です。

細かなところまで
あらゆるモノが等価

になりました。


即ち

 あらゆるモノが
どちらでも違いはない
 という完全ニュートラル

に成れたことです。
ここが
私がこれまでやってきた浄化の仕方との
在りようの違い
です。


この点を別の比喩を使って表現してみます。

少林窟坐禅は、
まっすぐにわき目もふらず
一直線にゴールまで突き進みます

ですから誰でも(例外は在るみたいですが)
一週間で目標(
「今、ここ」の心の定位置)をキャッチすること
出来るようです。

その代わりお掃除のし残しの部分が残ります。
ちょうど正方形の敷地の芝刈りをするのに、

対角線上に斜めに一直線に刈っていく

といった風情です。
その他の部分は刈り残して進んでいくわけです。
そして

とりあえずゴール地点
ハッキリ自覚してから

他の部分を刈り込んでいく

のが坐禅方式です。

これに比べると私がやってきた方法は、

一つ一つ日常の生活に
現れてくるブロックを
順に片づけていく

というやり方、と言えます。

ですから少林窟での数名の坐禅体験記を読んでみますと、
その全員が実生活に戻って心の葛藤を体験しています。

心のゴール地点である天国から、
実生活という地獄へ戻る苦しみ
を感じてしまうようです。

そのためやはり
何年もその後坐禅を続けている
ようです。


この記事を読んで
自分も行ってみようと思われる方もいらっしゃると思います。

それも貴方の一つの選択です。
そう想われる方にはお勧めいたしますし、
そう想わない方には、行く必要はないでしょう
とアドバイスさせていただきます。

本当に全てどちらでも良いからです。

こんなにニュートラルになった私
この先いったいどのように
進んでいくのでしょうか。
楽しみですね。

(完)

————————————————————-

(集合人第4〜6号より)

・・・・少林窟道場坐禅体験記 1/3

・・・・少林窟道場坐禅体験記 2/3

少林窟道場
http://shorinkutsu.com/

続・坐禅はこうするのだ―少林窟道場参禅記
by カエレバ

It's only fair to share...Tweet about this on Twitter
Twitter
Email this to someone
email
Share on Facebook
Facebook
スポンサーリンク