SNSフォローボタン

フォローする

【資料】幻想の活用【神とひとつになること】幻想=方便

「私たちは一つである」

ではなぜ地球人は、「10種類の幻想」を生み出したのか。

その「幻想」でこそ体験できることがあるからなのですね!

スッキリ!

幻想を幻想とわかったうえで活用できれば「方便」に変わる。

資料を置いておきます。

スポンサーリンク

もくじ

輝かしいヴィジョン・魂のヴィジョン、これが本当の現実である

輝かしいヴィジョンとは、

「探究心」「愛」「生命との一体感」を感じた、

『魂のヴィジョン』だ。

一度このヴィジョンを感じれば、もう他のものでは満足できなくなる。

一度このヴィジョンを経験すれば、すべての人とこれを分かち合うこと以外は、何も望まなくなる。

このヴィジョンが、本当の現実である。

幻想の中で経験する「あなた」は、『真のあなた』ではない。

幻想に囚われて、それを現実だと想像している限り、

あなたは『真の自分』を思い出すことはできない

幻想は現実ではない事を、思い出さなければならない。

幻想が現実的なのは、人々が現実だと信じているからだ

客観的な観察などない

私は幻想について説明してきたが、あなたは

「幻想であるとしたら、どうしてこれほど現実的なのか?」

と問いたくなるだろう。

あなたの問いに答えよう。

幻想が現実的なのは『人々がそれを、幻想ではないと信じている』からだ。

この世界は、すべてはあなた方が信じるとおりになる。

あなた方が、すべてを創造している

かつてあなた方は、「太陽が地球の周りを巡っている」と信じていた。

そして、すべての学問・知識が、それを証明していた!

あなた方はそれが真実だと確信し、それを中心にして天文学全体を作り上げたからだ。

かつてあなた方は、

「物質はすべて、ある点からある点へと、時間と空間の中を移動する」

と信じていた。

そして、すべての学問・知識が、それを証明していた!

あなた方はそれが真実だと確信し、それを中心にして物理学全体を作り上げたからだ。

よく聞きなさい。

不思議なのは、「そのシステム(学問体系)が機能していた」という事だ。

あなた方の観察は信念を支え、信念は知識を作り上げた。

後になって、もっとよく観察した時に、あなた方は考え方(信念)を変えた。

だが、最初に変わった考え方を言い出した人達は、

「異端者」「愚か者」「夢想者」と言われたのだ。

最初に考えを変えた者は、

「地球が太陽の周りを回る」とか

「物質はある所で消滅し、別の所で現れる」と主張したが、

『冒とく』というレッテルを貼られた。

真実と呼ばれるものは、「あなた方の大多数の信念・主張」である。

だが、信念と観察のどちらが先なのだろう? 

これが大切な疑問だ。

あなたは見たいものを見て、見たいと期待するものを見る。

そして、見えると期待しないものは見えない。

なぜなら、

あなた方には『客観的に観察することは出来ない』から。

科学は、「何事も、観察者の影響を排除して観察することは出来ない」という結論を出した。

霊的な世界ではそんな事は当たり前だったが、科学がようやくそれに追いついた。

研究は、二重盲検法で確かめなければならない事になった。

あなた方は、幻想を「現実だ」と信じているから、「これは現実だ」という結論に達する。

幻想は、「それは幻想だ」と信じれば、本来の目的に活用できる

あなたは、「幻想がこれほど現実的なのに、どうすれば幻想だと分かりますか?」と問いたいだろう。

あなたの問いに答えよう。

私はすでに、

「幻想が現実的なのは、それが現実だからではなく、現実だという固い信念をあなた方が抱いているからだ」

と説明した。

従って、幻想に対する見方を変えるには、まず「信念を変える」ことだ。

あなた方は、「見る事は、信じる事」と教えられてきた。

だが、新しい考え方は逆だ

『信じる事は、見る事』、これが真実だ。

幻想にぶつかった時、「それは幻想だ」と信じれば、

どれほど現実的であろうとも幻想に思える。

そうなれば、幻想を本来の目的(究極的な現実を体験する道具)として、活用できる。

幻想を道具として活用すれば、幻想が現れるのをただ見ているのではなく、

自分が求める幻想を創り出し、「そう、このはずだ」と頷くだろう。

実は、あなた方はすでにそれを実行している

だがそれを、意識的・選択的にではなく、無意識に行っている

他者の選択した幻想を、ただ受け入れている。

自分で幻想を選択した時、

あなたは幻想から逃れるだけではなく、

幻想の外に出て、幻想を自由にコントロールできるようになる。

あなた方が幻想をコントロールするようになったら、

自分が体験しようと思う通りに世界を体験し始めるだろう。

その時に、

『経験』とは「反応」ではなく「行為」であり、

よそから自分に起こるのではなく、

自分が引き起こすのだと分かる。

この秘密を理解した人が、「マスター」と呼ばれた。

この秘密を生きた人が、「祝福された者」と呼ばれた。

あなたは、祝福された者になりなさい。

「世界の出来事と、自分や神は関係ない」という理屈は歪んでいる

自分の世界の責任を取りたがらない人は、

「神が世界を創造したのだ、自分は堪える以外にはどうしようもない」

と言う。

だが、あなたが生きている世界は、あなたが創造したのだ。

その世界をもう望まないなら、世界は変えられる。

この真実を、大抵の人は受け入れない。

受け入れれば、この世界を創造した「共犯者」になるからだ。

あなた方は、この世界の創造に手を貸したと思うよりも、

「不本意な犠牲者の役割の方がいい」

と思う。

そう思うのも、理解できる。

この世界が『自分の創造の産物』で、

『自分の意図と欲望の結果』だと思ったのでは、

自分が赦せないからだ。

なぜ、自分を赦せないのか?

それは、「神が赦しはしない」と思うからだ。

あなた方は、「神は赦さないことがある(罰を与えることがある)」と教えられてきた。

だからあなた方は、次善の策を選択した。

「自分は関係ない」と言い訳をしたのだ。

「世界の出来事と、自分は関係ない」という理屈は、歪んでいる。

もし誰かが、

「この世界の混乱・惨劇は、すべて神が創造したのだ」

と言えば、あなた方は慌てて否定する。

「そうじゃない。神は人間に自由意志を与えただけだ。この惨劇を作り出したのは、人間だ。」

と言って、私を弁護する。

ところが、

「その通りだ。あなたの人生・現実は、あなたが創造したのだ。」

と私が言うと、

あなた方はそれも否定する。

こうしてあなた方は、

この世界は、神が創造したものではなく、
 人間が創造したものでもない。
 神も人間も、現実を悲しげに見つめているだけだ。

と言う。

だが、人生がひどい状態になると、結局は私を非難する。

「どうして、こんな事をなさるのですか」と、私に叫ぶ。

そして、「残酷な神が、こういう世界を創造したのだ」と言う。

あなた方は、「自分がこんな残酷な世界を創造するはずはない」と思う。

そして「自分はしないが、神ならするだろう」と想像し、

自分は神の気まぐれにもて遊ばれている」と思う。

こうした考えの積み重ねが、『宗教』と呼ばれるものだ。

あなた方は、「神がこんな世界を創るはずはない」と考え、『悪魔』を創った。

無情な事をする神という矛盾を解決し、

自分の責任を免れるために、悪魔という第三者を創り上げた。

完全なスケープゴートだ。

あなた方は、「こんな世界を創ったのは、悪魔がそうさせたのだ」と言う。

コメディアンの台詞が、あなた方の神学になった。

それとも、神学がコメディアンの台詞になったのかな?

幻想の創造を、時計を進めておく行為で例える

人は毎日、意識的・無意識的に幻想を創り出し、その中で生きている。

遅刻をしないように、『時計を進めておく人』がいる。

彼らは時計を見て、急がなくてはと考える。

幻想を創り出すことで、遅刻をしないようにしている。

中には、自分で時計を進めたことを忘れて、「間違った時刻を信じてしまう人」がいる。

そうなったら、幻想はもう役に立たない。本来の目的に役立たないのだ。

「時計が示している時刻は、自分で創った幻想だ」

というのを忘れてしまうと、

幻想が現実になってしまい、心配でたまらなくなる。

幻想は、幻想として認識している時にだけ、

『究極の現実の体験』への導きになる。

その時にのみ、目的に役立つ。

この説明で、

「幻想を幻想と見抜くこと」が、

「幻想を活用する事になる」と分かっただろう。

幻想を活用するプロセスは、見ている一切を否定する事から始まる

『幻想を、幻想と見抜いて活用するプロセス』は、

「幻想は、究極の現実とは何の関係もない」と否定するところから始まる。

長い間あなた方は、『究極の現実』を否定してきた。

今度は、その否定を逆転させればいい。

周りを見て、こう宣言すればいい。

「私の世界の一切は、現実ではない」と。

あなたが見ている一切は、幻想であり、10分進めた時計の様なものだ。

あなた方は、

「自分が創り出した幻想の中で生きていること」

を忘れがちだ。

「地上の経験は、すべて見せかけだ」

と言われると、落ち込むかもしれない。

だが、これは最大の贈り物・宝物なのだ。

物質的な領域の人生の目的は、

『本当の自分』に気付き、

それを宣言・表現・実現する事で

幸せをもたらすことだ。

人生の一瞬一瞬は、

すべて聖なる瞬間であり、

創造の瞬間だ。

それぞれの瞬間に、あなたは生まれ変わる。

進化するには、幻想を源にした物語から離れなければならない

『分裂は存在しない』

この洞察は、あなたの人生経験をまったく変えてしまうだろう。

この洞察は、『私達はすべて一体である』と言い換えられる。

すべてが一体だと気付けば、

「あるレベルでは、常に自分の思い通りになっている」と分かる。

言い換えれば、『失敗は存在しない』

失敗が無いと分かれば、『必要性が存在しない』ことも分かる。

こうした事を悟れば、幻想は内部から崩壊する。

そして、幻想が支えていた構造が砕け散る。

「幻想が支えていた構造」とは、『文化的な物語』のことだ。

『文化的な物語』はすべて神話で、『究極の現実』とは何の関係もない。

進化していくためには、こうした「幻想を源にした物語」から、離れなければならない。

離れるのに最も有効なのは、「静寂」だ。

静けさの中で、あなた方は『真の自分』を見い出す。

毎朝晩に15分の瞑想をして、

もう一度『神・内なる創造者(あなたの魂)』と交わりなさい。

その時にあなたは、「すべては一体であること」が真実だと知るだろう。

『究極の現実』とは、「分裂は存在しない」という事だ。

優越性は存在しない 私たちは一体だ

私たちは『一つの存在』だ。

だから、優越性は存在しない。

優越性は存在しないが、

人よりもよけいに「本当の自分を(すべてと一体である自分を)思い出している者」

は居る。

真実を話してあげよう。

愛は無条件である。

生命は永遠で、終わらない。

神には、何の必要性もない。

あなた方は、神の奇跡だ。

これが、あなた方が知りたがっていた事だ。

心の中では常に知っていたのに、理性が否定していた事だ。

魂がささやきかけていたのに、身体が沈黙させてしまっていた事だ。

あなた方は、

「神を知ろう」と誘いかける宗教によって、

神を否定するように求められてきた。

彼らは、

「神とあなたは一つではない」と言う。

「あなたは創造者ではなく、被造物である」と言う。

だが、私たちは一体だ

さあ、自分自身の中の創造者と出会いなさい。

幻想の目的と意味

もう、「幻想には欠陥がある」と分かっただろう。

幻想の目的は、

ありのままを見て(幻想を幻想だと見抜いて)、

深いレベルで知っていること(究極の現実)を思い出すことだ。

だからこそ、あなた方は「幻想を捨ててしまうと、大切な事が失われる」と感じるのだ。

幻想が存在するのは、

相対的な関係性のある場』を創り出して、その中で

あなたが「偉大な自分」を再創造できるようにするためだ。

宇宙は『相対的な関係性のある場』で、

生命が物質的に表現・体験される場を提供する。

あなた方は、

『相対的な関係性のある場』の「部分的なヴァージョン」だ。

言い換えれば、部分化した神だ。

『相対的な関係性のある場』の外では、

自分を『存在するすべて(神の総体)』としてしか把握できず、

個別的な自分を体験できない。

『相対的な関係性のある場』の中でこそ、

あなた方は「真の自分」を決定・表現できる

「自分とは何者か?」 

「私は、どんな存在であることを選ぶのか?」

これが、あなた方の魂が人生を使って、一瞬一瞬に決めている事だ。

人生とは、創造のプロセスである。

あなた方は、自分を経験して知るためには、

「自分ではない部分がある」と想像しなければならない。

それが、人生の幻想の目的(意味)だ。

だから、幻想に感謝し、幻想を活用しなさい

幻想にぶつかったときに「輝かしい自分」を表現すること

それがマスターへの道だ。

幻想を活用するプロセスの解説

幻想を活用するプロセスとは、こうだ。

幻想を幻想として見抜く

②それが何を意味するかを決める

自分自身を新たに再創造する

幻想は、

現実の経験にする事もできるし、

過去の記憶にする事もできる。

高度に進化した存在は、後者を選ぶ。

進化した存在は、

幻想に気付いているが、決してそれを終わらせようとはしない

幻想を終わらせる事は、人生を終わらせる事だからだ。

ただし彼らは、幻想を現在の一部としてではなく、「過去の一部」として経験する。

幻想を、「現在の経験」にはしないのだ。

大切なのは、『幻想を幻想として見抜く』ことだ。

そうすれば、幻想を活用できる。

自分の「ある側面」を経験するのに、幻想は道具として役立つ。

幻想は、あなたの様々な側面を経験するのに、利用できる。

例えば、

「必要性」と「不足」の二つの幻想を組み合わせれば、あなたは『自信』を経験できる。

必要性と不足の幻想を利用すれば、

不十分だ(自分は持っていない)」という考え方を招き入れられる。

そして次に、その考え方を克服すればいい

そうすれば、自信という経験が生まれ、

必要なものは充分にある」という究極の現実への確信ができる。

これが、「考えを招き入れて楽しむ」という格言の意味である。

だが、「すべては幻想だ」という事実を見失ってしまうと、やがては幻想が厳しい現実に見えてくる

「厳しい現実」から抜け出す方法は、
幻想をありのままに見て、幻想から抜け出すことだ。

幻想は、あなたが一瞬一瞬に自分を選択・表現するための、『機会』を与えてくれる。

「必要性」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

ここからは、幻想を一つずつ取り上げて、活用する方法を考えていこう。

「必要性」という幻想は、

「自分は何も必要とはしない」という偉大な経験をするのに、活用できる。

この幻想から抜け出した時、あなたは

「必要性は存在しない」という『究極の現実』を経験する。

究極の現実とは、「必要だと考えるすべてを、あなたはすでに持っている」という事だ。

必要性の幻想から抜け出すには、

「今、必要だ」と思うものを見つめる事だ。

そして、「それが無くても、自分は存在している」と気付くことだ。

必要だと思うものが無いのに、今ここにあなたは居る。

では、なぜそれが必要だと思うのか?

何かを必要だと思ったら、「どうして必要なのだろう?」と問いかけてごらん。

この問いかけが、あなたを解放してくれる。

はっきりと見つめれば、

何であれ、実は必要ではなく、「必要だと思い込んでいるに過ぎなかった」

と気付くだろう。

呼吸している空気でさえ、必要ではない。

死ぬ瞬間に、あなたはそれに気付くだろう。

空気は身体が必要としているだけで、あなたは身体ではない。

身体はすばらしい道具だが、創造のプロセスを続けていくのに必要ではない。

死の恐怖を和らげる方法は、身体への執着を捨てることだ。

身体から離れれば(死を経験すれば)、それは決して恐ろしいものではなく、輝かしい体験だと知るだろう。

そして、どれだけ身体に愛着があったとしても、

「身体に縛られるよりも、身体から離れる方がはるかに好ましい」と分かる。

そうなれば、身体への執着を捨てることは簡単になる。

この悟りは、身体から離れるまで待たなければならない事ではない。

身体への執着を捨てるには、「必要性という幻想」から離れればいい。

離れるには、生命と死についてもっと深く知ることだ。

なぜなら、「生命は永遠だ」と分かれば、どの経験も何度でも味わえると分かるからだ。

あなたは、

この人生でも他の人生でも、愛する人達と

望めばいつでも一体感を経験できる

さらに、身体から離れれば、思考と同じスピードで望みは実現する。

これらの事は、『神へ帰る』という本の中で話してあげよう。

恐れる必要は何もないし、必要な事も何もない。

あなた方は、神なしで死ぬ事も、神なしで生きる事も、あり得ない。

なぜなら、私たちは一体だからだ。

私は、『存在するすべて』である。

『存在するすべて』が常にあなたと共にあるなら、あなたに必要なものは何もない。

この真実を理解すれば、不安はなくなる。

「不安がない」というのは、それ自体が祝福である。

不安は、その対象を引き寄せる。

不安は強い感情であり、強い感情は創造的だからだ。

だからこそ私は、「不安に思うことはない。不安そのものを恐れよ。」と、マスター達に言わせたのだ。

不安なしに生きるには、「人生は完璧だ」と知ることだ。

死でさえも、完璧なのだ。

この事を言っておこう。

自分の人生を深く見つめれば、

「成長するために必要なものは、いつも持っていた」と分かる。

その証拠は、『今ここにあなたが居る』ことだ。

あなたが成長するのに必要なものは、常に満たされていた。

必要性が満たされていない様に見えるのは、すべて「不安」のせいだ。

「すべては完璧」と分かれば、あなたは不安なしに生き、栄光を経験する。

『必要性という幻想』を幻想だと見抜けば、本来の目的に活用できる。

つまり、「栄光を体験し自分を知るための道具」として使える。

例えば、

「身体が必要だ」という幻想を使えば、あなたは身体を守って大切にする。

そうすれば身体は、「さらに大きな栄光を創造する」という、本来の目的のために使える。

「人間関係が必要だ」という幻想を使えば、あなたは人間関係を守って大切にする。

そうすれば人間関係は、「さらに大きな栄光を創造する」という、本来の目的のために使える。

必要性という幻想を、活用しなさい。

『幻想は、幻想だと見抜いている時にだけ役立つこと』を、知っておきなさい。

幻想を現実だと信じてしまうと、不安が生じて、執着の罠におちいる

そして、幻想の中で迷子になる。

迷子になった時の解答は、自分の外側を探しても見つからない。

解答は、あなたの内側にしか見つからない。

この事を覚えておきなさい。

『 内側に入っていかなければ、何もなしで外に出て行くことになる 』

「すべては必要ない」と思い出せるのは、自分の内側でだけだ。

必要性という幻想を利用して、

『何も必要とせずに、すべての必要性が満たされている聖なる自分』

を、体験しなさい。

この聖なる自分が、『本当のあなた』だ。

「失敗」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

失敗という幻想は、

「何事にも失敗はない」

という究極の現実を体験するために、活用できる。

あなたのする事に失敗はなく、すべては「プロセス」に過ぎない。

自分ではないものが存在しなければ、『真の自分』を体験できない

だから、自分ではないもの(失敗だと感じるもの)を体験している時は、

真の自分を体験する途中なのだ」と理解しなさい。

失敗と思うものが訪れたら、愛情を込めて抱き取りなさい。

非難したり抵抗してはいけない

見つめれば、ありのままの姿が見えてくる。

失敗という幻想は、「自分はいつも成功している」と気付くための道具になる。

失敗の幻想から離れるには、すべてを成功の一部だと見ればいい。

すべては成功に繋がるし、成功のためのプロセスの一部だ。

この事を、特に科学者は理解している。

真の科学者は実験の失敗を楽しむし、「実験の失敗は成功への道だ」と理解している。

失敗の幻想は、成功の喜びを体験するために必要なのだ。

もしすべてに成功していたら、それが成功だと分からなくなり、栄光を体験できない。

本当は、失敗は無い。 

「様々な側面を現わす成功」があるだけだ。

これが分かれば、感謝の念が起こるだろう。

そして、

「私は天使以外の何も、あなた方の所へ送らなかった」

「私は奇跡以外の何も、あなた方に与えなかった」

という言葉の意味を、ようやく理解できるだろう。

「分裂」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

何かとの結びつきが強くなると、

いつの間にか「一つになっている」のに気付く事がある。

一つになるのは、ある所まではすばらしい。

しかし完全に一体になると、むなしい経験になる。

分裂が存在しなければ、一体性には何の意味もない

だから、一緒に居る時も、スペースを確保しなさい。

構造物を支える柱は離れているし、リュートの弦も離れている。

人生(生命)はすべて、『一体化と分離をくり返し経験するプロセス』である。

だが、本当に離れる事はあり得ず、ただ拡大するだけだ。

宇宙はかつて、見えない位の小さな点に凝集していた。

それが爆発して拡がったのだが、

ばらばらになったのではなく、「拡大」していっただけだ。

自分とかけ離れていると思う人がいたら、その人を深く見つめてごらん。

その時あなたは、そこで自分自身に出会うだろう。

自分とかけ離れていると思う物質があったら、その物質を深く見つめてごらん。

その時あなたは、そこで自分自身に出会うだろう。

深く見つめれば、「すべては一体である事」を知る。

一体感が強くなれば、苦しみも悲しみも消える。

苦しみとは離ればなれでいる事への反応であり、

悲しみとはその表明だから。

分裂・分離は、究極の真実ではない。

だが分裂・分離は、すばらしい幻想だ。

その幻想があるからこそ、「一体となる喜び」を経験できる

どこを見ても、

そこに自分が見えるなら、

あなたは「神の目」で見ているのだ。

この事を覚えておきなさい。

『 一体感が強くなれば、人生の苦痛や失望は消える 』

「不足」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

不足という幻想は、「豊饒(豊かさ)」を経験するために、活用できる。

「持っている事」を知るには、どこかで「持たない」という体験をしなければならない。

そこで『不足という幻想』が登場する。

不足という経験の創造は、豊饒を知って経験するためだった。

不足の幻想から抜け出るには、どうすればいいのか。

それには、誰かの不足を満たしてあげなさい。

お腹をすかせた人には、食べさせてやりなさい。

服が必要な人には、着せてやりなさい。

住まいが必要な人には、住まいを提供してやりなさい。

その時にあなたは、「自分は不足していない」と知るだろう。

必ず、あなたよりも貧しい人はいる。

その人を見つけて、あなたの豊饒さを分かち与えなさい。

何かの受け手になろうとするのではなく、「源」になりなさい。

そうすれば、「自分は、いつでも持っていたのだ」と思い出す。

この真理があるから、

「自分にしてほしいと思うように、人にしてやりなさい」

という言葉があるのだ。

まず、神の王国(天国)を求めなさい。

そうすれば、すべては与えられる。

神の王国を求めるには、どうすればいいのか?

それには、天国を人に与えてやりなさい

他の人にとっての天国に、なりなさい。

人生で触れ合うすべての人に、祝福を与えてやりなさい。

この事を覚えておきなさい。

『 与えれば、あなたはそのものに(その源に)なれる 』

「課題」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

課題という幻想は、

「しなければならない事は何もない」

という真実を経験するために、活用できる。

人生が終わる時にあなたは、自分がした事(行為・業績)には何の意味もなく、

それをした時に自分がどんな人間だったか(自分の在り方)が大事だった、

と知るだろう。

あなたは幸せだったか? 

親切で思いやりがあったか? 

愛していたか?

人生が終わる時にあなたは、魂にとって大切なのは「何をしたか」ではなく、

「どんな人間だったか」だと分かるだろう。

『しなければならない事は何もない』

ほとんどの人にとっては、この真実は解放であると同時に、恐ろしいものでもある。

多くの人は、「人は放っておかれれば、必要な事をしなくなる」と信じているからだ。

この不安・信念には、根拠がない。

よく見れば、人間は素晴らしい存在である事が分かる。

規則のないコミュニティでも、良い行いをする人は沢山いる。

それどころか、良い行いをしない人はごく少ない。

何も貢献しない人だと思われるのは、気分が良くないからだ。

規則や規制が無ければ、「行われる内容」ではなく、「行われる理由」が変わる。

しなければならないと「言われたからする」のではなく、

自分が「選んでする」ようになる。

これによって、行為と存在のパラダイムが逆転する。

あなた方は、「すべての行為には、見返りが与えられるべきだ」と思っている。

だから、地上にいる間に良い事をした者は見返りとして天国に行き、

悪い事をした者は見返りとして地獄に行く、と考えた。

だが、言っておこう。 地獄は存在しない。

地獄とは、「ある状態」だ。

それは、神や自分自身と離れていると想像し、自分自身を見つけようと試み続ける事だ。

天国も、「ある状態」だ。

それは、一つであるという経験、『存在するすべて(神)』と再び一つになるという歓喜、自分は神であると知ること、だ。

あなた方は、常に天国に居る。

だが、天国に居ながら(すべては一体であるのに)、

それを知らない(忘れている)場合がある。

これを変えるのは、

行為によってではない。

『存在(在り方)』によってのみ、変えることが出来る。

それが、「しなければならない事は何もない」という言葉の意味だ

しなければならない事はなく、ただ存在の仕方があるだけだ。

そして存在の仕方は、「一つであること」があるだけだ。

あなたが「全てと一つ」になれば、驚くべき事が起こる。

あなたは自分にしてもらいたいと思う事を、自然に人にするようになる。

あなたは自分にしてもらいたくないと思う事を、自然に人にしなくなる。

全てと一つになれば、他者など居ないと気付き、他者など居ないという世界を体験する。

「一つであること」は、課題として要求されるのではない。

すでにそうなっている(実現している)事を、要求することは出来ない。

従って、課題は存在しない。

あなた方は、様々な事を要求する神(課題を設定する神)を想像した。

そうやって、課題という幻想を創り出した。

あなた方は、「実は課題などない」と気付くと、

信じられないほどの喜びを経験し始める。

課題の幻想は、「実は課題などない」と気付いて喜ぶために、使いなさい。

この事を覚えておきなさい。

『 真の愛(神の愛)は、何も要求しない 』

「裁き」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

裁きという幻想は、「裁かれない」という驚きを経験するのに、活用できる。

あなた方が裁きという経験を創造したのは、

『裁かない神』という驚きを経験して、

「神の世界には、裁きなどあり得ない」と理解するためだった。

人は、他者に裁かれた時に、「裁きは決して愛に支えられていない」と分かる。

あなた方は裁きの幻想を信じ、裁きが期待される社会を生み出した。

そして、『正義・司法』と呼ぶシステムを創り出した。

だが、言っておこう。 神の目には罪人などいない

なぜなら、私の目はあなた方よりもよく見えるからだ。

『本人の世界観に照らせば、不適切な事をする者は誰もいない』

誤った行いは、誤解をしているだけなのだ。

罪悪感と不安、これは人間の唯一のだ』

高度に進化した社会では、誰も裁かれない。

ただ、行為の結果がありのままに観察され、はっきりと知らされる。

裁きという形で、なぜもう一度害する事をするのか?

もう一度傷つける事が、最初の被害を回復させる事になるのか?

観察と裁きは違う。

観察とは、ありのままを見抜くことだ。

裁きとは、こうあるべきだと結論を出すことだ。

観察とは、証人になることだ。 

裁きとは、結論を出すことだ。

裁きは結論を出すから、判決が言い渡される。

私は、絶対にあなた方を裁かない。 

私は、ありのままを観察するだけだ。

あなた方は、「自分自身は何者か」という結論を出すのは不可能だ。

なぜなら、自分自身を創造し続けているからだ。

あなた方は進行中であり、決して完了しない。

今のあなたは、さっきのあなたではない。

私は、過去のあなたを決して見ない。

私は、あなたが「今、何者になろうと選択しているか」を見る

『あなた方は、常に生まれ変わっている』

これが理解できれば、自分を裁く事も、他人を裁く事も、無意味だと分かる。

なぜなら、あなたが裁こうとする者は、裁いている時にはもう存在しないのだから。

この事を覚えておきなさい。

『 自己の創造は、決して終わらない 』

「罪の宣告」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

罪の宣告という幻想は、「自分にふさわしいのは、賛美だけだ」という真実を経験するのに、活用できる。

常に賛美の中に居たのでは、賛美は何の意味もなくなる。

だからあなた方は、罪の宣告という幻想を創り、「賛美は悪い事だ」と信じ込んだ。

特に自己賛美は悪い事だと思い込み、「自分の輝かしさに気づいてはいけない(人間は原罪を負っている)」と、あなた方は決めた

罪の宣告の幻想は、「人間を害する事が可能だ」という宣言でもある。

だが真実は、あなた方は神に似せて創られた存在であり、傷つけられる事も害される事もない。

(あなた方の魂は、無条件の愛であり、不死で永遠である)

罪の宣告の幻想は、この驚異を経験するために創り出された仕掛けだ。

罪の宣告と地獄を、教会に通う人々は信じてきた。

だが、このイメージは偽りだ。

だからこそ、私がインスピレーションを与えたヨハネ・パウロ2世は、

「聖書に題材をとった絵を誤用して、心の病や不安を引き起こしてはならない」

と諭したのだ。

(1999年7月28日の説法で)

彼は、「聖書にある地獄は、神のいない苛立ちや、空しさを表すもの」と語った。

『地獄とは、神から離れることで自らが招く状態だ』と、彼は説明したのだ。

だが、罪の宣告の幻想は、自分の様々な側面を経験するのに役立つ。

例えば、不安・赦し・慈悲などだ。

赦しを経験するのは、若くて未熟な文化だけだが(進んだ文化は、赦しは必要ないと理解している)、赦しは進化の途中では大きな価値を持つ。

赦しは、様々な傷を癒すことができる。

癒すことで、健康や幸福への道が開ける。

罪の宣告の幻想を、あなた方は創造的に使ってきた。

赦しを表現できる場を創り出して、赦しを経験する事で、愛と神の真実に近づいた。

赦しについての最も有名な物語の一つは、イエスが隣の十字架にかけられた男を赦して、

「神を求める者は、誰も罪を宣告されない」という真実を明かしたことだろう。

これは、『決して誰も、罪の宣告を受けない』という意味だ。

なぜなら、誰でも究極的には神を求めているから。

『神ともう一度一体になりたいと望めば、誰でもその望みは達せられる』

赦しは、本当は必要ではない。

私たちは、すべて一体だ。 

それなのに、何を赦すというのか?

手はつま先を赦すだろうか? 

目は耳を赦すだろうか?

愛とは、『決して罪の宣告をしないこと』だ。

この事を理解すれば、誰かが「つまずいた」時に、罪の宣告をしたりしなくなる。

ささいなつまずきを見て地獄に落とす神など、決して考えなくなる。

この事を覚えておきなさい。

『 裁くなかれ、罪を宣告するなかれ 』

「条件」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

条件という幻想は、

「自分も愛も、無条件で存在すること」を経験するのに、活用できる。

あなた方(の魂)は不死であり、無条件に存在するが、

「無条件ではない」という状態がなければ、それを経験できない。

あなた方は、純粋にただ存在するだけでは、満足できなかった。

だから、条件という幻想を創り出した。

この幻想は、「自分は、何かの存在に依存する」という考え方だ。

条件の幻想から、『相対性』が創り出された。

例えば、暑さと寒さは、本当は対立するのではなく、同じものの「別の状態」だ。

本当に存在するのは、『一つのエネルギー』だけだ。

そのエネルギーを、あなた方は生命・神と呼ぶ。

この唯一のエネルギーの「個別の具体的な振動」を、あなたがたは「条件」と言う。

生命・神は、変化する。

神はプロセスである。 

神は『なりゆくもの』である。

『なりゆくもの(神)』には、特別の条件は存在しない。

ただ、なるようになる(変化していく)。

だがあなた方は、変化を定義して、変化を測定しコントロールしようとする。

つまり、ある条件を望む。

条件の幻想が存在するのは、「無条件を経験するためだ」と分かれば、

あなたは全ての条件を祝福するだろう。

何かの条件があるから、あなたはその条件を克服して、

「自分はどの条件よりも大きいのだ」

という究極の真実を体験できる。

だが実は、克服したのではない。

元々あなたは、その条件には居なかった。

克服したのではなく、「その条件は自分ではない」と見抜いたのだ。

「この条件は、私ではない(この条件は幻想である)」と宣言する人は、

比類ない経験を生み出す。

他の人なら嘆くような人生の条件を、祝福する人がいる。

彼らは、そういう条件を贈り物として受け入れ、偉大な自分を再創造するための機会にする

あらゆる条件を判断するのは、常に自分自身だ。

他人が貧困と感じるものを、あなたは豊かだと感じるかもしれない。

他人が敗北と感じるものを、あなたは勝利だと感じるかもしれない。

これが分かれば、あなたは「すべての条件の創造者」になる。

これが分かれば、意識的に自分で、すべての条件を判断(創造)する道を選ぶようになる。

その時にあなたは、自分の人生の経験を何かのせい(誰かのせい)にするのを、やめるだろう。

そうなれば、経験のすべてが変化する。

あなたは「自分は犠牲者ではなかった」と知り、

やがて「犠牲者は誰もいない」ことに気付く。

     この事を覚えておきなさい。

『 犠牲者は誰もいない 』

「優越」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

優越という幻想は、

「他より優れているものはないし、他より劣っているものもない」という真実を経験するのに、活用できる。

本当は「たった一つの存在」しかなく、すべては等しい。

だが「等しくない」という幻想によって、個別化した自分に気付く事ができる。

「神から離れた」と想像しなければ、「自分は神の一部だ」と感じることは出来ない。

言い換えれば、私から離れなければ、私が見えない。

だから、あなた方は「自分は神ではない」と想像した。神を経験するために。

あなた方は、

「自分は神と等しい(自分は神だ)」という事を、ぜひとも経験したいと願っている。

そこであなた方は、『優越性という幻想』を創造した。

自分があらゆるものと等しいことを、知るために

神との一体性は、一体性の欠如(=分裂)が可能な場でないと経験できない。

同じ様に、「あらゆるものは等しい」という経験は、優劣が可能な場でないと経験できない。

優越の幻想を、幻想として見抜いたとき、

あなたは「自分は神の側面だ(神の一部だ)」と知る。

私は『存在するすべて』であり、あらゆる人、あらゆるものの中に存在する。

従って、優劣はない。優劣はあり得ない。

優越の幻想は、とても強力で非常に危険なものだ。

だから、深く完全に理解しておく必要がある。

あなた方が「自分たちの方が優れている」と称して行った事は、劣悪なものだった。

優越性を基盤にした行動は、劣悪さを生み出す。

『私たちはすべて一体である』

これが、生命の本質的な真実だ。

チューリップはバラよりも優れているだろうか? 

山は海よりも立派だろうか?

すべてが見事であり、共にその見事さを祝って、美しさを生み出しているのではないか?

生命は、消えはしない。 ただ、形を変えるだけだ。

固体から液体に、液体から気体にと、何度も変化して戻り、美と驚異を展開する。

この「変化・美・驚異」が、生命であり、あなたである。

触れ合うすべての生命に、美と驚異を見ることだ。

それぞれがすばらしく、他のもの以上にすばらしいものはない。

これが分かれば、地上での経験のすべてが変わる。

政治・経済・社会・教育が変わり、ついに地上に天国が実現する。

「優越は幻想である」と分かれば、

自分に対する考え方が大きく拡がり(自分の視野が拡がり)、

経験も大きくなる。

この事を覚えておきなさい。

『 あなたの考えが大きくなるほど、あなたの経験も大きくなる 』

「無知」という幻想を、幻想と見抜いて活用する

あなた方は、心の中ではすでに究極の現実を知っている。

「すべての生命は一つであること」 

「あらゆるものが等しい価値を持つこと」

「愛は無条件であること」 

などを知っている。

無知は、幻想だ。

だが、「無知という幻想」は、役に立つ幻想だ。

そのおかげで、あなた方はもう一度「知る・学ぶ・思い出す」ことが出来る。

そのおかげで、あなた方は生命の循環を再び経験できる(輪廻転生ができる)

無知の幻想によって、あなた方は

『相対性の領域(宇宙)』で生き続けることが可能になる。

本当はすでに知っている事を、また知ることが出来るのは、無知の幻想のおかげだ。

すべてを知っていたら、もう何も知ることは出来ない。

試しに、「自分は~を知らない」という幻想を持ってごらん。

その瞬間にあなたは、「実は知っていた」という体験ができる。

そして、知っていた事をもっとよく分かるようになる

これが、『謙遜』ということの驚異だ。

これが、「私には分からない事がある。それが分かれば、すべては変化するかもしれない。」

という言葉が持つ、大きな力だ。

謙遜は、栄光につながる。

ここで言っておこう。

知らない事がある」という考えは、知る事につながる。

すべてを知っている」という考えは、何も知らない事につながる。

どの幻想もそうだが、幻想は『絶対の領域・究極の現実』への扉を開いてくれる。

だが、幻想を「自分の現実のすべてだ」と勘違いをしてしまうと、もう役には立たなくなる。

あなたは、自分の幻想に騙されてしまう。

そうなったら、誰かに救ってもらわなければならない

『救済者』とは、「思い出させる者」の別名だ。

本当のあなたを思い出させてくれる者、

あなたをもう一度神のメンバーにしてくれる者、

あなたが神の一部である事を知らせてくれる者。

これが、救済者だ。

他の人に、本当の自分を思い出させてやりなさい。あなたは救済者なのだから。

あなたは、他の人が神のもとに戻るために(自分自身に戻るために)、私が遣わした者

である。

すべての幻想から、抜け出しなさい。

だが、幻想から離れないことだ。

「幻想の中」ではなく、「幻想と共に」生きなさい。

そうすれば、あなたはこの世に居ながら、この世の者ではなくなる。

あなたは、マスターになる。

幻想を見抜けば、あなたは「自分が幻想を創っており、それを活用している」と知る。

そうなれば、幻想を活用することへの考えは大きくなっていき、

やがて「自分はマジシャン(幻想の創造者)である」と理解する。

この事を覚えておきなさい。

『 あなたは、マジシャン(幻想の創造者)である 』

幻想を活用すれば、思いのままに自分の経験を創れる

例えば、「無知の幻想」を活用すれば、

あなたは自分が知らない事がある(思い出していない事がある)と認めて、

もっと多くを理解したり、思い出したりできる。

幻想は、『相対的な関係性の場』を創造しているに過ぎない。

意識的に関係性の場(この宇宙)を使えば、思いのままに自分の経験を創れる。

例えば、『寛容』を経験したければ、「必要性の幻想」「不足の幻想」を混ぜ合わせて

『相対的な関係性の場』を創り出し、その中で寛容を表現すればいい。

あなたが「寛容を表現したい」と思っていれば、物乞いに出会ったり、親戚から金の援助を頼まれたり、という関係性の場が現れる。

その時に援助をすれば、あなたは寛容を経験できる。

だが気を付けていないと、『物乞いや親戚は、あなた自身が招き入れたのだ』という真実を、忘れてしまう。

幻想に深く浸りこんでしまうと、「人生のすべては、自分が呼び寄せたものだ」という事を忘れてしまう。

そして、私の最大の教えを忘れてしまう。

『私は、天使以外の何者も、あなた方の許へは送らなかった』という事を。

人生で訪れる瞬間は、すべてがあなたにとって贈り物なのだ。

人生の体験に定まった意味はない、意味はあなたが与えるのだ

人生の体験には、歓迎したくないものもある。

そういう体験をした時、ほとんどの人は一番してはならない事をする。

つまり、「この体験には、どういう意味があるのか」、知ろうとする。

多くの人は、「起こるのには理由があるはずだ」とか

「これは何かのしるしだ」と考えて、意味を知ろうとする。

だが実は、どんな体験にも「隠された真実」などない

誰が真実を隠すというのか? なぜ隠すのか?

もし私が、あなた方に真実を見つけさせたいなら、

隠すよりも明らかにしておいた方が効果的かつ親切ではないか。

実は、どんな体験にも意味はない。

あなたが与える意味以外には。

『 人生には、定まった意味はない 』

人生に決まった意味がないから、あなたはどんな意味にでもする事が出来るのだ。

人生をどう定義するかで、あなたは自分を定義する。

これが、『どんな存在であるかを自分で選ぶ』という経験だ。

これが、『新たな自分を再創造する』という行為だ。

何かが起こった時に、どうしてかと問うのはやめなさい。

そうではなく、どうして起こったかを、「自分で選び」なさい。

どうして起こったかを、「でっち上げ」なさい。

あなた方は、物事(体験)の理由や原因を、自分ででっち上げている

だが、ほとんどの場合は無意識にしている。

これからは、「意識的に」創り上げなさい。

人生の体験は、

意味を探ろうとはせずに、

自分で意味を与えなさい。

これが、マスターへの道である。